<大海獣の遺影> ‐大和60回忌に寄せて‐
昭和20年(1945)4月7日、沖縄に水上特攻出撃を行った戦艦『大和』(やまと Yamato)を旗艦とする第二艦隊は米軍機約370機の雷爆撃を受け、旗艦『大和』以下6隻が沈没と言う結果に終わった。
(写真は『大和』公試時の撮影。数少ない『大和』の写真の中でも白眉と言われるもの。)
本来ならこれは≪いくさぶね夜話≫のネタだけれども、『大和』については既に様々なところで語られいる“超”有名軍艦と言うことで、ここにとりあげまする。
ただ、ここでは『大和』についてなんかは、やらない。そんなの昨日のブログ検索すりゃいくらでも見られるから。
ここで書くのは沖縄特攻作戦である『天一号作戦』について。
そもそも『大和』以下、“第二艦隊”の水上特攻出撃は、イキナリ決まった物である。
沖縄出撃の作戦は実のところ
“航空部隊だけに特攻をさせているのが忍びないから”
出されたものであって、そこに何の目的も勝算があった訳でもない。
当時、既に水上部隊が航空機の援護も受けず、敵の航空攻撃に曝されれば撃沈は必至なのは判り切っていたのである。
現に昭和19年(1944)10月には姉妹艦の『武蔵』(むさし Musashi)が米軍機の反復攻撃で午前10時半から午後3時まで死闘の末、日没後に沈没しているのだ。
にもかかわらず、4月5日に出された命令は、無謀にも敵艦船ひしめく沖縄西方海域へ突入し、46センチ主砲をもって攻撃せよという内容である。成功の可能性は全く期待できない。
ならばなぜ、かような命令が出されたのか?
前述の水上部隊の処遇といった理由もあろうが、実のところは
“もし敗戦となった時、このような大戦艦を温存したままでは顔が立たない”のが実情らしい。
時既に“一億総特攻”の掛け声で、戦争の勝ち負けよりも面子で戦争を継続させようとしていた政府である。
ましてや軍人ならば“死んで当たり前”であり、ならば“どう死なせるか”がポイントでしかなかった。
そして先のような命令が連合艦隊司令部より出されたのである。
当然命令を受けた第二艦隊は最初は反発する。
出撃するならば何らかの勝算があってこそだ、と。
短い時間の中での激しい討論の末、結局最終的には第二艦隊は司令長官以下、命に従い死地に赴くのである。
無謀な命令を
『軍人としての死に場所を与えられた』
と解釈して。
さて、欧米人はここの所が判らないという。
①“なぜ戦果の期待できない出撃命令を出したのか”
②“なぜみすみす沈められると判っている出撃を受け入れたのか”
の2点である。
軍事に詳しくない現代の人が考えても同様の感想を抱くと思う。
②については、軍人は与えられた命令に従うのみであるという思想、そして敗残兵として生き長らえるよりも、戦いの中に消えたいといった思想からか。
書籍などには一億特攻の先駆けとして散るともある。
きっとその全てであろう。
当時は今では見られないほど『国家への忠誠』が大事にされていたのである。これは今の常識論では理解できまい。
①については“海軍の栄光、名誉を後世に伝える”と言う完全な建前論である。これほど責任のない命令は過去、どこの軍隊にも見られないのではないか。
事実この沖縄突入作戦は第二艦隊の10隻中6隻が沈没したことにより挫折し、残存の駆逐艦4隻は虚しく佐世保に帰投する事になる。
しかし命令者である連合艦隊司令部の責任を問う動きは全くなく、処分は一切行われておらず、逆に生存者は離島や施設に隔離され、作戦失敗の事実隠蔽がなされている。
間違えないでいただきたいのは、命令に従い、死を決意し、艦上で勇敢に戦った者に責任はなく、むしろそれらの行為は航空特攻攻撃に散った兵士と何ら差のない、忘れべからざる偉業であると言うことだ。
『死んで来い!』と言う命令の前に自己の命を顧みず、戦いに臨んだ者を、平和な後世の誰が非難して良いものか。
戦死した彼らは今も海底に眠り、生き残った者は心に深い傷を持ちながらも、戦後を生きたのである。
第二艦隊の水上特攻を『無意味であった』と非難する向きもあるが、本当に非難されるべきは出撃した彼らではなく、無謀で可能性のない命令を出した連合艦隊司令部である。
『大和』が沈んで60年。その命令の不備を糾弾し責任を追求する動きは未だない。
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