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2010年9月 5日

<母ちゃん(別な意味で)凄ぇ!>

さてさて、今度は前回と違った意味で凄い母親の話。

昔勤めていたレストランのホール係の人(複数)と
ひょんな事から食事に行った時
その面子の中にママさんがおりまして、
その人の息子さん(Aクン:推定6歳)も同行。

食事中、Aクンが何か粗相をしちゃったみたいで
その時にママさんが

「オマエ何しとんねん!しばくぞゴルァ!!」 

( ゚д゚) ・・・

(;゚д゚) ・・・
  _, ._
(;゚ Д゚) …!?

ヽ(`Д´)ノ  お前『母親』やろがっ!

もうね、子育てとか躾とか、
そういうモノとは別の次元に生きてるんだなと…
私はこんな人とは判り合えないデス。

2007年8月31日

<どうなっているんだ!>

身近な友人から聞いた話や、占いに来られたお客さんから伺った話で、どうも最近子供をめぐる環境がおかしい、と言うか異常なようだ。
何を今更…の感もある方もいらっしゃるかもしれない。現に巷では給食費を払わない、など2ちゃん用語で言うところの【DQN(ドキュン)】(異常、社会常識に欠けている者、または知性に乏しい者全般)な親や大人教師が話題に上る事が多い。

友人からの話はともかく、お客さんから伺った話は許可を取っていないが、占った内容とは別の事柄なことと、個人を特定できない(であろう)点から、ここで紹介させていただく。
なお、長くなりそうなので何回かに分けていきます。

《ケース:1-1》
とある小学校の教師(男性)は受け持ちの生徒が悪戯をやらかしたので、体罰を伴った指導を行った(要するに叱った)。
体罰と言う行為は、言う事を聞かない子供を躾ける上ではある程度必要と考えているが、ここで重要なのはその程度である。
何とこの教師は生徒のみぞおちに向かってパンチ(!)を繰り出したと言うのだ。

ちょっと待て!と言いたい。
躾として、生徒の行き過ぎた悪戯や過度の過ちを戒めるため、やむを得ず手を上げねばならないケースもあるだろうと思う。だがいったい何の必要があってそこまで過激な体罰をせねばならないのか?
これはもはや“体罰”ではなく、立派な?“暴力”である。
子供の指導を暴力でしか行えない教師はもはや教師ではないだろう。
教師が教育と言う理念を捨てて、暴力と言う手段で子供に言う事を聞かせる事を選択した瞬間から、この教師は自ら教師と言う職を捨てたに等しいと考える。

しかしこの教師の異常な指導はこれだけではなかった
(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

こんな話し続けたくないけれど、続く

2006年2月 1日

<○○襲来!!>

海軍では《見張り》は重要な任務でありまして、直(当番)に就いている時には『メガネ(双眼鏡)から目を離すな、瞬きもするな!』と言われていたとか。
敵(目標)を発見した時の報告順序も決まっていて、①方位②高度(飛行機の場合)③距離④目標の順で報告するそうです。
そんな海軍では物の言いまわしも独特だったようで、
『面舵一杯っ!』なんてセリフも実際は
『おもーーかーーじ、おもかじ○○度~~』と、実に悠長な言い方だったそうな。
朝の起床の号令(総員起し)も
『そーーいん、おこし、』です。
これは戦時中の映画《ハワイ・マレー沖海戦》で実際にやってたので、間違いありません。

まぁ、関係ないんですが、この言い方を借りると
つい先日にありました。
『方位120(ヒトフタマル)、水平面、距離5メートル、天○教、向かってくるっ!』

そう、《敵》です。(笑)
実は以前も襲来を受けております。 (´△`)
だもんだから、今回は迎撃も慣れたものです。
もうね、訳ワカンナイ話されるんですよ。
夜はおとなしく家にいろっ!
何よりも占いの仕事の邪魔だったらありゃしない!
迎撃方法は…無視、シカト、スルー

天:『お互い人をお助けしているんですから話聞きません?』
ユ:『いらん』
天:『ちょっとでも…』
ユ:『いらん、去ね!』
天:『パンフレット(貧弱なチラシ)置いていきますから…』
ユ:『ゴミになる、いらん!』
取り付く島を与えず、撃退♪

前に(迂闊にも)聞いた話では、天○教(奈○)は
《世界の文明の起源》
だそうです…禿藁  へ(゜∇°)へ

前に比べて最近は寒いせいか、
路上で戦う回数は減ってたんだけどな。。。
いろんなヴァカがいたけど、
こんな電波飛ばしまくりの連中は勘弁ッス。
誰か宗教除けのおまじない、知りません?

2005年4月 2日

<占い師と人のかかわり>

仕事柄、人と接することの多い“占い師”
と言うか人と接するのがお仕事ですから…

来られる方は様々です。

心をオープンにしている人もいれば
警戒態勢で防護シャッターきっちり閉めてこられる方も。

まぁ、ほとんどが初対面みたいなもんですからね
イキナリ打ち解けろってのが無理な話ではあります。

さすがにケンカ腰の方はいませんがね。
(1年半ほど前に一人いたな)

私の仕事はカードのメッセージを伝えることであって

読心ではありません。(火田七瀬ぢゃ~ないんだから)

どうせなら、楽しい時間を過ごしながら
私から情報をいっぱい引き出して欲しいですね♪
せっかくお金を払っていただいてるのですから。


それよりも、占い師は人と接する仕事とは言え、
その時間は短い方がいい。

いや、占いの時間じゃなくて、かかわる期間。

生きている上で、迷いや悩みがあるのは
仕方のない事なのだけれど、

そんな時に人に相談するのは
当たり前の事なのだけれど、

だから占い師のところに来るのだろうけれども、

その機会は少ない方がいい。

人生を一本の線にたとえるならば、
あなたの線と占い師の線は重なってはいけない。

絡まってもいけない。

ほんの一瞬交わるだけでいい。

占い師の生きる線は、
いろいろな人の線をまたいで進むライン。

接点は多くとも、長くかかわる線にならないよう

人々の線を横切って進むラインなのです。

2005年1月27日

<スポーツと教育環境>

TBをいただいたので、お返しの意味も込めて1本。

私はスポーツが苦手であります。でも体を動かす事がキライではないし、下手ッピだけどするのは好きなほうかな?

とは言え、日本人のスポーツ観とか報道姿勢にはある意味嫌悪さえ感じる時がありますね。
競技なのだから勝敗は明確にあらわれるのですが、それは当然。
強さを競う、技を競う。勝利するために鍛える姿勢と言うのは正しく評価されていいでしょう。

あ、ここで言うスポーツはアマチュア対象ね。部活動と取ってもらえるのが正しいかも。

んで、日本人がスポーツと教育をどう結びつけているのか?と言った点で見ると、とても『健全に』とは思えない所が多々見られると思うのである。

部活動であれ何であれ、勝利と言うものは一つの目標であります。
だからと言ってスポーツに苦しい、厳しい練習に耐える姿勢、そしてその結果勝利を手にするといったイメージを求めすぎちゃぁいませんかね?
スポーツってのは勝つ喜びしかないのかね?

違うだろ!!

生きる上で、何かを成す上で目標と言う物が大事です、というのは私が占いの現場でもゲストさんによく言うセリフではありますが、それだけに固執しろとは言わない。

目標、目的とはある到達点であって、実はそこに至るまでの苦しんだり悩んだり、楽しんだり考えたりする過程こそが人間形成上必要な事なのだと考えるのです。

スポーツが教育の一環であるならば、体を動かす爽快感、競技に参加する喜び、プレーする楽しさ、協調性、指導力の養成、があって然るべきぢゃーあーりませんか。

スポーツの目的=勝つ事。の図式しか当てはめない、そんな見解しか出来ない人間に指導教育された生徒が健全な人間になりうるのか?

あまりにも『勝ち』にこだわる姿勢が見え見えなのは部活動優先進学(入学したら必ず『部』に入る事を条件に『ワク』を甘くする)や、野球留学(だっけ?)などの学校の売名行為に利用される点。
青田買いだよね。いつから学校は選手養成工場になったんだ?
勝てばイイのか?有名になればイイのか?
それが教育者のすることか?

これこそスポーツ(精神)に対する冒涜ではないだろうか?

私は高2まで軟式テニスやってたんですが、下手ッピでうだつが上がらなくて、部内の強圧的な雰囲気もイヤで、顧問の先生に「部を辞めたい」と告げると

「途中で辞めると進学の内申書にひびくから」と、止められた。

「進学の為に部活動してるんじゃないし、このままだと自分がゆがみそうです」と押し切って辞めましたがね。

そん時、部活動の目的って何だろなーって思いましたよ私ゃ。

スポーツマンは健全であれ。
教育者はもっと健全であれ。

2005年1月25日

<日本人と暴力>

昔、私の通っていた大学の応援団が、合宿で新入部員をしごきの挙句に殺すと言う事件があった。
その応援団は私が入学した時、同期の友人を『見学だけ』と言いながら部室に引っ張って行き、『来たら入部』するものだ、などと勝手な事を言い出し、友人が「辞めたい」と言うと講義のあるなしに関らず呼び出し、集団で殴る蹴るのリンチを加えた挙句に『辞めたいなら20万払え』と脅し、結局友人は20万を払い何とか抜け出す事が出来た。
同じ大学の空手部でも友人が同じような目に逢い、『辞めるなら大学から出ていけ』と脅され、結局入ったばかりの大学を辞める羽目になった。

件の応援団はその事件がもとで廃部になったのだが、最後まで見苦しい悪あがきをしていたとの事。
つまり人を一人殺しても『反省』していないのである。

日本人が“男性的”なものや“力強さ”を誇示するのに『暴力』を肯定するきらいがあるようでならない。

日本の(旧)軍隊もしかりである。
趣味が嵩じて軍事関連の知識もあるが、世界広しと言えども内部での暴力を『公認』していたのは日本だけではあるまいか?
表向きは“私的制裁”を禁じてはいたものの、その実指揮官級の人間でさえ
「兵隊と太鼓は叩くほど強くなる」、「普段殴られる鬱憤を敵に向かって晴らす」等々と言ってはばからないのが現状であった。(一部にはそういった暴力行為を禁止した人もいたのであるが)
そんな意識レベルの低さでは
「負けたのも仕方ない」のである。

先の応援団にしても、集団で一人に暴行を加えるのが男のする事か?
騙して引きずり込むのがまともな勧誘のやり方か?
挙句に退部を条件に現金(大金)を要求するなど、もはやこれはヤクザの世界である。

どこかの企業は、体育会系出身者は上下関係のけじめがついているので率先して取るとか言った噂を聞いた事があるが、マジでそう考えているのだろうか?だとしたらあまりにもレベルの低い会社だ。
部や組織と言った閉鎖社会で、必要以上に先輩後輩の差を強調し、暴力で強制的に言うことを聞かせる事しか出来ないレベルは高いと言えるだろうか?
結局、教育や指導の名のもとに暴力をふるうのは、指導力のなさを棚に上げ強制的に服従させるための短絡的な手段でしかない。

古来日本人は対面や名誉、尊厳を重視する風潮があったはずなのだが、暴力の支配するところではそんな物は微塵もありはしないし、暴力を強さや男らしさの象徴と捉え美化したり、高圧的な態度で絶対服従を強いる上下関係が『躾』であろうはずがない。

もちろん腕を鍛える、強さを極めるために“厳しさ”は必要であろうが、それが暴力である必要はない。
いや、暴力でしか人を鍛えられない、言うことを聞かせられない時点でその人間や集団は文化から程遠い『野蛮人』へ転落したのである。
そしてそんな行為を肯定している風潮が存在している限り、意識の水準は戦争前と変わらないレベルでしかない。

2005年1月 8日

<生きる意味>

重いタイトルですな(笑)
占い師と言う仕事柄、たくさんの人と会う機会があります。
皆さん悩んで迷って苦しんで、でもそれは“前に進みたい”からなんですよね。

生きていく上で自分自身色々と悩んだり苦しんだりしているのですが、そんな時、心によみがえるコトバってのがあるんですよね。
えらい人の言葉や有名な小説とかの、ではなくマンガのセリフなんですが…

『MASTERキートン』(原作:勝鹿北星 作画:浦沢直樹)
アニメにもなっているのでご存知の方もいらっしゃるでしょうね。
英軍特殊部隊出身で考古学者志望の保険調査員、太一・キートン・平賀を軸に様々な“人々”の生き方が描かれた作品です。
大きなコマ割りや強調されいない、どちらかと言えばさりげなく表現されていながら、けっこうズシンとくるセリフの多い事がこの作品の面白いところではないでしょうか?

キートンの娘が通う高校の教師は、昔は志があったものの、妻に去られ息子も死に生徒にも馬鹿にされる現在の中で、かって息子に言った言葉を思い出し再び起ち上がる話ですが、その中のセリフが

『とり返しのつかない人生なんかない』

スイマセン、強調しちゃいました(笑)
来ましたね-これは。
やってしまったことは消せないけれど、『間違ったなー』と思ったらやりなおせばいいんです。
リベンジではなく、リトライしましょうよ♪

あと、キートンが社会人学校のセミナーで講義している時のセリフで“人間はなぜ学ぶのか?”と言うことに対し

『それが人間の使命だからです。』

と講義します。
ここで言う“学ぶ”意味は“知る”と言うこと。
何も机に向かって教科書に書かれている事を覚えるだけが勉強ではないのです。
TVを見たり、音楽を聴いたり、人と接したり、仕事を通じたりして知らなかった事を知り、理解する。
それが“学ぶ”ということではないでしょうか?
そして知った事を役立てるのが大事ですよね。
死ぬまで学び続けたいものです。


おいらがサイコーに“ガツン”ときたセリフは
村上もとか氏の短編集『クライマー列伝』(絶版か?)に収録されている話なんですが、
ヒマラヤのふもと、チベットのある村のシェルパ(登山家の案内や荷役を職業とする人々)の若者の物語。
彼が子供の頃、シェルパ頭に石を背負って岩を登れと鍛えられるシーンで子供の彼が泣きながら
『石が重いよー、登れないよー』と叫ぶと

『ならば落ちて死ね!生きる気のない奴がこのヒマラヤで生きていけるか!!』

と怒鳴るシーン。
これ、ヒマラヤが日本でも街中でも同じだなって思いました。
“生きる気”=“意思”じゃないですかね?
命の危険が無いところで、ただ息をして、メシ食ってダラダラと日々を過ごす…
これは本当に“生きてる”とは言えないでしょう。

悩みも迷いも、前に進む為の重要なプロセスだと考えてみてください。
目的と意思を持ち、困難を克服する。失敗してもそこから教訓を得て何度でもトライする。
それが“生き方”であり“生きる意味”ではないでしょうか?

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