フォト

今日は何の日?

2019年6月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ

2015年6月25日

<地図と航空写真で見る神戸港の変遷> Part.3 

明治維新から追ってきた神戸港の変遷史。今回が最終回です。

Kobe_1970crop

昭和45年(1970)の神戸港の地図です。
大阪千里丘で『万国博覧会』が開催された年ですね。
ポートタワーの位置がが地図に示されています。
加えてこの地図からは判りませんが、4年前に新港第8突堤の東側に『摩耶埠頭』が完成しています。
 
海岸線に沿うように『阪神高速3号神戸線』の高架道路が現れました。
平面からはあまり感じられませんが、神戸港の景観も大きく変わりつつあるのです。
そして神戸港はこの後もまだ変貌を続けます。
 
余談ですが、この3年前に『ウルトラセブン』のロケ撮影が神戸にて行われました。
巨大ロボット キングジョーが六甲山、そして神戸港で暴れまくり、そしてセブンも釣られて暴れます(オイ!
デカイのが2体で暴れるので、港の近辺は水浸しになりましたとさ。(迷惑だなぁ…)
 

Kobe_1975crop

昭和50年(1975)の神戸港
 以前からの港湾施設にはほとんど変化はありませんが、新港第4突堤の先が延伸され、さらにその先に巨大な『陸地』が出現しています。
これが『ポートアイランド』と呼ばれる巨大な埋立地です。
陸地とポートアイランドを結ぶための、第4突堤から伸びた連絡橋である『神戸大橋』は1970年に開通しています。
(それにしては先の地図には記されていないゾ!)
ポートアイランド自体はこの時点でまだ工事中で、完工(第一期)は昭和56年(1981)になります。
 
中突堤(なかとってい)の東側、防波堤の内側には艀がひしめき合っています。
これまでの画像の中で、最も多く写っているのがわかります。
艀の荷役作業はこの頃がピークだったのでしょう。
この後、貨物の形態はコンテナ輸送になると共に荷役作業の場はポートアイランドへ移行していくので、艀は減少していくことになります。

Kobe_1980crop

昭和55年(1980)の神戸港
 前述のポートアイランドの完工は翌年ですが、既に貨物業務は稼動しています。
その影響から、港内の艀の数が激減しているのがおわかりいただけるでしょう。

Kobe_1985crop

昭和60年(1985)の神戸港
 従来の貨物の取り扱いは、ほとんどがポートアイランドへ移行され、もはや艀は新港第一突堤の西側に固まっているのみです。
 
画像からは変化が見られませんが、神戸駅の隣の湊川駅(貨物駅)は既に業務を停止しており、この年に廃駅となります。
物流の主体は徐々に鉄道からトラック輸送に切り替わっており、これはそんな時代の変わり目の画像なのです。
 
阪神高速道路の南に海上をまたぐ様に『浜手バイパス』が新設されています。これは翌年に開通します。
『自動車』が交通・物流の主役になりつつある“流れ”が見て取れます。
 
中突堤とメリケン波止場の間の海面の埋め立てが始まっていますね。ここは後に『メリケンパーク』となる場所です。

Kobe_1990crop

平成2年(1990)の神戸港
 小さい画像を無理矢理引き伸ばしたので、見え辛い点はご容赦ください。
昭和62年に完成したメリケンパーク、そしてこの時点ではハーバーランドが建設中の状態です。
バブル真っ盛りの時期ですね(笑

Kobe_1995_117crop

平成7年(1995)1月17日の画像です。
 あの震災を経験した人にとっては辛い画像ですね。
上空写真からは被害の程は判りにくいですが、メリケン波止場の部分が崩壊しているのが確認できます。
海の色が奇妙な色に変わっているのが不気味です。

Kobe_nowcrop

現在の神戸港
 震災後、ポートタワーの付近から西側が新たに埋め立てられ、遊覧専用の波止場が新設されています。
中突堤の先端には神戸メリケンパークオリエンタルホテル(長ったらしいなぁ)があります(1995年開業)。
 
かつて小野浜駅、神戸港駅と呼ばれた貨物駅は廃駅となり、跡地は過去『神戸震災復興記念公園』として整備されています。
また新港第5~8までの突堤の間の部分は埋め立てられ、主に倉庫群が軒を連ねています。
そして元の第6突堤部分の地下には、ポートアイランドに通ずる『神戸港島トンネル』(海底トンネル)が新設されました。
“見えない部分”も大きく変貌しているという事ですね。

Kobe_now_mapcrop

 
◎最後に
 日本が鎖国を解き、単なる船着場程度しかなかった海辺に埠頭が築かれ、鉄道が敷かれ造船所が生まれ、果ては人工島までが出現するとは当時の誰が想像したでしょうか?
 
国家の輸出入の多くを請け負う港町として、また国際航路の玄関として発展してきた神戸と言う町は港抜きでは語れません。
営々と発展しながらも戦火に焼かれた後に復興し、また震災で打撃を受け、神戸港での貨物の扱いが減っているとは言え、まだまだ今後の発展と進化の余地は大いにあると思います。
 
開港当時の人々がここまでの発展を予想できなかったのと同じように、我々もまた今後の神戸港がどのようになっていくのか、計り知れないものがあります。
今後も神戸港の『進化』を出来るだけ見届けて行きたいですね。

<地図と航空写真で見る神戸港の変遷> Part.2 

Part.2は昭和に入ってからの神戸港です。
 
Mg_9801
画像は昭和初期の神戸港の地図です。
中突堤(なかとってい)は工事中となっていますね。
先の地図と比べると、新港突堤の番号が左から1~4と変更されています。
これは外国船が入港する関係からかとも考えられますが、詳細はわかりません。
 
ブイがそれぞれ“A(アルファベット)” “5(数字)” “あ(ひらがな)”と分けられているのが見て取れます。
これは設置されたブイの数が増えたための処置と思われますが、係留する船舶の大小で区別されていた可能性もあります。
それだけ神戸港に入港する船の数が増えていた事を裏付けるものですね。
 
小野浜貨物駅(写っていませんが)からは海岸線沿いに線路が延びて、高浜岸壁の倉庫群まで引かれています。(代りに神戸駅からの線路がなくなっていますね)
そして神戸駅のそばに、貨物用の『湊川駅』が新設されています。
ブイの数の件もそうですが、港で扱う荷物の量が増加しているためでしょう。
この事から、船から荷揚げされた貨物が(すぐに)鉄道で運ばれると言う、当時の物流システムが判ります。
 
 画像からは判り難いですが三ノ宮駅は移転していますが、旧駅の場所にはまだ駅は出来ていないのがわかります。
市内では市電(路面電車)網も充実してきています。
港のみならず神戸の都市としての発展が伺えますね。

Kobe_1930crop

 次の画像は昭和5年(1930)の神戸港で、前の画像よりも少し後のものです。
先の新港突堤の東側に、新たに第5突堤が建設され、さらに工事中です。
 
 港の中心部には新たに『中突堤(なかとってい)』が据えられています。
新港突堤が貨物の扱いを重視しているのは、各埠頭に鉄道線が引かれている事からもわかります。
中突堤には貨物線が見られません。(後に1本だけ線路が引かれます)
この事から、中突堤は主に旅客用として使われていたのでしょう。
 
陸に目を転じると居留地跡に日本銀行(支店)が置かれ、ビジネス街として発展中である事が窺えます。
先に書いた三ノ宮駅の移転、そして元町駅が新設されています。
この頃が戦前の神戸港の絶頂期であったのかもしれません。 
 

Tumblr_lcjyppbldv1qzfye6o1_r1_1280

大戦中  米軍撮影の空襲を受ける神戸の航空写真です。
まず倉庫群が直撃を受け、煙を噴き出しているのが目に付きます。
海上をよく見てください。ゴミのように点々と写っているのは焼夷弾です。
陸に目を向けると、市街はほとんど焼き尽くされていますので、これは恐らく昭和20年3月17日に行われた空襲よりも後の撮影で、6月5日に撮影されたもので間違いありません。
 
神戸駅の北側、今で言う下山手の辺りだけ焼け残っているのが妙に印象的です。
港の様子(施設)は先の画像と大きく変わっているところは見当たりません。
恐らく戦争中は港湾設備の拡充までは手が廻らなかったのでしょう。
このときの空襲の目標は市街地もさる事ながら、川崎重工(造船所)が主であったと見られます。
 
余談になりますが、ここでは大型艦に限っても戦艦榛名、伊勢、加賀(後に空母に改造)、空母瑞鶴、大鳳、巡洋艦加古、衣笠、足柄、摩耶、熊野、大井、鬼怒、神通などの建造が行われてきました。 
そして何よりも極初期からの(現在もですが)潜水艦建造のメッカでもあったのです。
画像にも建造中の『伊ー1(Ⅱ)』『伊ー15』(共に終戦までに未完成)などが確認できます。
戦略目標にされてしまうのは仕方のない事だったのでしょう。
 
Battle_bombtokyo29
この画像は先のものよりも若干後に撮影されたもののようです。
新港の北側、すなわち旧居留地辺りが燃え盛っているのでしょう、煙が湧き上がっています。

Targetchart10akobeareafebruary19451

戦時(空襲)関連の話を続けます。
上の画像は米軍が空襲の際に用意していたチャート(地図)です。
新港の第二期建設予定の部分(東側)まで記載されていますね。
いったいどこからこんな仔細な地図を入手したんだか…
 
 スケール(円目盛り)の中心は神戸駅のようです。
恐らく爆撃目標の第一は先に書いた川崎重工(造船所)なのでしょう。
戦争の“手段”としては間違ってはいない。間違ってないけど… なんだかなぁ。

Kobe2crop

空襲に関連して、更に驚くべき事は上の画像です。
これは当時の捕虜が収容されていた場所や施設を記したものです。
これらの場所を避けて爆撃しろ、と言う事なのでしょう。
こういった情報はどこから入手したのか、興味深い所です。
日本側が中立国辺りを経由して、通知していた可能性もありますが。
 
キャンプションには“大倉山公園”“オリエンタルホテル”などが挙げられています。
先の空襲中の写真を見ると、大倉山公園の辺りが焼け残っているのが確認できます。
ノルデン爆撃照準器の精度、恐るべし!米軍最高機密兵器だけの事はある。
“マルヤマパーク”というのは、もしかして現在の灘丸山公園の事かな?
それにしては場所がおかしいのですが。
“アオタニキャンプ”と言う場所がそれに近いようですが…
あと、セキグチとなっているのは今の王子公園辺りですね。
動物園などができるのは昭和26年(1951)ですから、当時の地名でしょうか?
“Divisional Camp”って何だろう?場所的には旧居留地ですね。
ここは上の画像で思いっきり爆撃されて炎上してますよ?いいのか?
 

Kobe_1947

さて、時間を進めて戦後の神戸港を見てみましょう。
画像は昭和22年(1947)の神戸港です。
一見、前回の記事の最後の戦時中のものと比べて特に変わったところは見られません。
しかし戦時中に比べて港内には大型船舶が全く入っていませんね。
これは戦争での船舶の被害が甚大であった事を物語っていると言えるでしょう。
唯一、造船所の乾ドックに大型船が入渠しているのが見られるだけです。
メリケン波止場や海岸に多数群がっているのは、荷役に使用する『艀(はしけ)』です。
前回で触れたように艀は神戸に限らず、港湾では貨物の積み降ろしには不可欠な存在でした。
コンテナに収められた貨物をガントリークレーンで積み降ろしする、と言う荷役風景はまだまだ先の事です。
そしてこれらの艀を使って、港湾労働(荷役)に従事する労働者を取り仕切っていたのが、山○組でありまして…
まぁ、それは触れずに置きましょう(苦笑
 
戦後2年が経ち、陸地部分では復興が始まっているようですがまだまだ更地が多く残っています。
ちなみに貨物線の『小野浜駅』は昭和14年(1939)に『神戸港駅(こうべみなとえき)』に改称されています。
 

Kobe_1963crop

昭和38年(1963)の神戸港です。
前の画像と比べ、艀の数が格段に増えています。
加えて新港突堤や沖には大型船が入港しており、港内では小型船舶が行き交うなど、港の活況が伝わってきます。
 
新港は東に拡充され、第8突堤までのエリアが完工しているのが見て取れます。
この年、中突堤に神戸港のシンボルとも言える『ポートタワー』が竣工・開業していますが、画像からはまだ確認できません。
市街地は完全に復興を果たしているようで、もはや更地は見当たりません。
現在『山手幹線』と呼ばれている道路も、以前に比べ拡張されているのが確認できます。
 
さて、今回はこの辺で。
次回は昭和40年代から現代に至る神戸港を見てまいります。
 
続く

2015年5月28日

<地図と航空写真で見る神戸港の変遷> Part.1 

今回から地図や航空写真を使い、神戸と神戸港の発展と変化をレポしてまいります。
どうぞ最後までお付き合いくださいね。 
 
Part.1 明治から大正期
 
◎明治初期
 江戸の最末期、幕府の政策転換により開国と共に開港(当初の予定は兵庫港)する事となり、明治元年(1868)に誕生した神戸港ですが、その頃の様子はどのようなものだったのでしょうか?

1872m3_2

開港から間もない明治3年(1870)の神戸港です。
(酔人漫様の『塾長日記Blog』より転載・加工。クリックで拡大)
 
かろうじて後に『メリケン波止場』と呼ばれる突堤(船着場)と、海軍操練所跡の船溜まりがあるのみで、お世辞にも港湾施設と言える物がほとんど見当たらないのが判っていただけるでしょう。
 
陸側に目を転じると、付け替え工事の終わっていない(工事中の)生田川や湊川が認められます。
この時期、生田神社の東には、外国人用の競馬場がありました。
 
画像では“小野浜造船所”としていますが、この頃はまだ“小野浜鉄工所”と呼ばれていました。
後に帝国海軍の発注で、日本初の鉄製軍艦(スループ、sloop)『大和:やまと Yamato(初代)』が建造されます。
 
 
◎明治後期

Kobe_meijicrop

 画像では判りにくいですが、市電が敷設されているので明治末期(40年代)と思われる神戸港です。
地図の左端に見える湊川が付け替えられた(埋立て済)後です。
しかしまだ地名に『新開地』と言う名称は記されていません。
 
この頃になると海岸線の辺りも港湾らしく整備され、メリケン波止場がしっかりとした造りになっている事、現在の京橋付近では、新港の工事に伴い埋め立てが始まっている事が記されています。
 
余談ではありますが、この地図と同時期(明治41年(1908)4月28日)に、ここ神戸港から『笠戸丸:かさとまる Kasato-Maru』 が第1回のブラジル移民を乗せ出航しています。
 
川崎町(現在のハーバーランド付近)の場所には、川崎造船所や高浜倉庫が作られ、それに接続する貨物線が敷かれているのが判ります。
当時の神戸駅は正に神戸の玄関口であり、神戸市役所も駅の北側にあったのです。
そしてメリケン(米利堅)波止場の上の方に、移転前の旧三ノ宮駅が見て取れます。
(現在の元町駅のやや西側。昭和6年(1931)に現在地へ移転)
この駅を窓口として、南にある元町商店街が繁華街として発展する事になります。
 
外国人居留地は明治32年(1899)に日本に返還され(治外法権がなくなり)、神戸市に編入されました。
ちなみに居留地東側にある“遊園地”(実は運動場)は『内外遊園地』と呼ばれ、日本人も立ち入る事が出来ました。
当時珍しかった外国人のスポーツを市井の人々が訪れて観戦していたと言われていますから、多分お手軽な国際交流の場だったのでしょうね。
 
前述の小野浜造船所は、既に設備が呉海軍工廠に移転され、閉鎖されています。
 
 
◎大正期

Kobe_1920

大正9年(1920)の神戸港です。
最初の頃に比べ、もはや比べ物にならないほど一大商港としての威容を見せています。
真っ先に目に付くのはメリケン波止場から見て東に新設された『新港突堤1~4』ですね。
(当時の倣いから、右より1~4の順となります)
 
その新港突堤に併せて貨物線の小野浜貨物駅が新設され、軌道が突堤まで引かれおり、港で扱う貨物の量が増大した事が窺えます。
突堤に隣接して倉庫群が記されているのも、その現れでしょう。
画像では読み取り難いのですが、メリケン波止場西側にも倉庫群と小規模な突堤が新設されています。
 
旧生田川・旧湊川は完全に道路になり、その道筋から辛うじて河川跡が偲ばれる程度となっています。
 

Fimg_9796crop

同時期(大正後期?)の別の地図です。
 
新港突堤の東側に新たな埠頭の建設(新港第二期)が計画されているのが見られます。
また、第一突堤は拡張の計画線も引かれています。
加えて港内中央部(メリケン波止場西側)に、新たな埠頭も建設予定です。
(点線部分)
 
この時期、神戸港が急速に進化していることが見て取れます。
港内の航路も整備されているのがわかります。
海上に点々と描かれているのは停泊用の『ブイ(浮標)』の位置とその番号です。
当時は直接岸壁に接岸する以外に、これらのブイを使用して船を繋ぎ、沖で荷降ろしして艀(はしけ)で運んだり、通船を使って旅客の乗降をするのが普通だったのです。
艀については、また後の記事で触れる予定です。
 
続く
 
サイトより転載・加工いたしました。

2006年2月 6日

<“大和”本、読むなら(見るなら)コレ♪>

映画『男たちの大和』の前宣伝、でもないでしょうが昨年の夏からいわゆる《大和本》が雨後のタケノコの様に湧いて出ております。
 ついにはガンプラ&キャラもの専門誌(とは言い切れないが)の『ホビー・ジャパン』まで“大和”が出てくる始末。
(模型誌だから別に構わんのだが…)

普段は海軍モノとは縁もゆかりもない生活をされている人がほとんどだと思いますが、その中のコンマ数%でも“大和”に興味を持った方へ、この映画人気にあやかって一儲けをたくらんだ時流に乗った《大和本》のチョイスをアドバイス♪

◎初級

 まず、『戦艦大和ってどんな船だったの?』レベルの方向け。

bokuyama

【僕たちの好きな戦艦大和】
別冊宝島
■定価:1200円(本体1143円)
■雑誌:66080-61
■ISBN:4-7966-5022-9
■2005年12月2日発売

まぁ、《読み物》としてはこの程度で充分ではないでしょうか?
他にゴチャゴチャと出ている1,000~1,500円程度の本なら、これと大同小異、てなところです。

◎中級

 “大和”と言うフネをもっとビジュアル的にも構造面からも突っ込んで知りたい!という病気度マニア度が嵩じてきた人には…

ushio-yamato

月刊「丸」別冊 【究極の大戦艦 大和・武蔵の真実】
発行年月日:2005年11月15日
定価:1600円
(本体1524円)
雑誌コード:雑誌08308-12
発行:潮書房

コレはわりとオススメですね。《大和ミュージアム》の1/10“大和”の詳細写真、イラスト付きの各部解説、主砲部の図面つき解説、大和・武蔵変遷史、Q&A、などで、変遷史は『丸スペシャル 大和・武蔵』から、その他戦記などはバックナンバーからの再録ですが、初心者の方が読んで、見ても判りやすい構成になっています。
この本の極めつけはマンガ『ヤマトの亡霊』(!)
あの『8(エイト)マン』の桑田次郎が書いています。コレも25年前の「丸」本誌からの再録なんです(なんで知ってるんだ!)
“ヤマト”(作品中ではカタカナ表記)は潜水戦艦だったんだそうです(笑)

◎上級

とに
かく『本物の“大和”が見たい!』人ならば…

EIENYAMATO

戦艦「大和」永遠なれ! 写真集<空前絶後・永久保存版>
KKベストセラーズ

編・著 原 勝洋
定価(税5%) \4,200
( 本体価格 \4,000 )
判  型 B5上製
刊 行 年 2005.12.15

 ちと大袈裟なタイトルですが、世に出ている、そしてこの本でしか見れない“大和”(一部“武蔵”)の写っている写真と図面を目一杯収録してある本です。
レイテ沖海戦、沖縄特攻、構造解説など、上手にパート分けしてあるので内容に不自然さがありません。
ただ難点は掲載されている写真が(モノによっては)暗い焼き上がりなので見難い点がある事かな。


musasiyamato

日本海軍艦艇写真集 別巻 戦艦大和・武蔵
ダイヤモンド社
定価(税込):3990円
発行年月:2005年04月 取扱い可能
判型:A4横 造本:上製 頁数:144
ISBNコード:4-478-95054-7


 呉の呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)が所有する写真を(極力)1カット1ページのコンセプトで編集した写真集シリーズの別巻。
これも“大和&武蔵”の写真と図面だけで構成されており、先の《~永遠なれ》に収録されていない写真がありますが、こちらは説明文は最小限。
 写真は大きくて見やすいのですが、図面は見辛いです。

これらの写真集、どちらも4,000円代なのでそうおいそれとは手が出ないでしょうが、マニアなら買わずにいられないでしょうね。
あ、初心者向けのガイドがいつのまにかマニア向けになってる…(汗)
(^_^;)

2006年1月18日

<観に行きました>

公開から1ヶ月経って、やっと観てまいりました、『男たちの大和』

ストーリーやロケセットの再現度についてはいろんな所で述べられているので、ここでは割愛しますが今回お話するのは『大和』の撮影の方法について。

ディティール(細部)については良く考証がなされていましたね。撮影用のアレンジもありましたが、特に苦言を述べる部分もないでしょう。
ええ、昭和20年になってから増備された両舷の25ミリ機銃のシールドが角張った縁の戦時急造型じゃないじゃん、なんて言いませんよ(笑)
艦橋トップ、防空指揮所と15m測距儀のクリアランスが低過ぎて、あれじゃあレーダー操作で測距儀を旋回させると、見張員はもとより指揮をとってる有賀艦長までなぎ倒されるんじゃないかなんて、思いませんでしたから。ハイ。(^_^;)

さて、気になったのは『大和』の全景。
スチール写真やポスターを見ると、なーんかオモチャっぽい。
本物の『大和』の写真と見比べてみると、違うんですよね。原因は撮影する時に使用されたレンズの違いと(やっぱりの)スケール感です。

公試運転中の大和の写真は、恐らく運転状況観測用の随伴艦が、ほぼ500~800メートル離れたところから撮影したものであると思われますが、その時に恐らく長大な船体の全景をフィルムにを収めるために広角レンズ(パノラマサイズが撮影できるアレです)が使用された可能性があり、これは横方向のデフォルメ感が強調されてしまいます。
船体が長く(特に艦首部)艦橋部がこじんまりと写っているのはそのせいでしょう。

スケール感についてですが、これは実物と写真と図面の奇妙な関係、とも言えるものです。
身近なところで乗用車を例にとってみましょう。
車は乗り物としては人間が“乗り込む”(乗っかって、ではない)ものです。つまり人間よりも大きい物です。
これを外から眺めると、全景を見るならばどうしてもある距離まで離れなければならない。
でも、遠近感の影響で必然的に手前のボリュームが強調されてしまうのです。
さて、同じ車を写真で見るとこの遠近感が更に強調されてしまいます。特にパンフレットや広告のリリース写真などは『見た目の印象』が大事ですから、撮影アングルはかなりデフォルメ気味にされています。

次に、この実車の図面を正確に模型で再現すると『なんか違う』どころか『全然違う』印象になる事があります。
これは普段目にしている視点がどちらかと言うと“同じ高さ”か、もしくは“見上げる”のに対し、模型の場合では“見下ろす”視点になるからと言う事が原因です。
つまり、先に述べたスケール効果によって、大きさが違うとその印象までもが大きく異なったものになってしまう訳です。
ですから模型メーカーの設計者は実物の図面通りに製品を開発すると『似てない!』『○○らしくない!』と叩かれる事を良く判っているのです。
この『らしさ』を再現するのに模型のメーカーさん(設計者)は苦労するのですが…

さて、今回の『大和』ですが、その撮影には呉の《大和ミュージアム》にある1/10模型と、撮影用に作られた1/35模型が主に使用されています。
これらは“実物の再現”の精度は極めて高いものだと言えますが、撮影に使用する段階で前述の“スケール効果”と“デフォルメ効果”の再現度についてはちょっと『足りなかった』と言う事ですね。

これにもう一言付け加えれば、船体の『高さ』が気になりました。なーんかね、『腰高』なんですよ。
船体が“短くて高い”と感じるから、どうしても『大和』の巨大さが半端になった感じは否めません。
これもスケール効果の一つでしょう。
『大和』を攻撃するアメリカの艦載機の圧迫感を出そうとワザと大きめに見せたこだわりは判りますが、主役が置き去りにされてしまいましたね。

だからと言ってこの映画が駄作だと言う事ではありませんよ。
東宝の『連合艦隊』に比べれば遥かに“硬派”な作り(笑)
ワザとらしい“お涙頂戴”もなかったしな~。
原作を上手くアレンジしてきちんとした作品に仕上がっております。
オイラは後半ずっと涙ダダ流しだった事はここだけのヒ・ミ・ツ♪

2005年4月 8日

<大海獣の遺影> ‐大和60回忌に寄せて‐

昭和20年(1945)4月7日、沖縄に水上特攻出撃を行った戦艦『大和』(やまと Yamato)を旗艦とする第二艦隊は米軍機約370機の雷爆撃を受け、旗艦『大和』以下6隻が沈没と言う結果に終わった。

yamato1
(写真は『大和』公試時の撮影。数少ない『大和』の写真の中でも白眉と言われるもの。)

本来ならこれは≪いくさぶね夜話≫のネタだけれども、『大和』については既に様々なところで語られいる“超”有名軍艦と言うことで、ここにとりあげまする。

 ただ、ここでは『大和』についてなんかは、やらない。そんなの昨日のブログ検索すりゃいくらでも見られるから。

ここで書くのは沖縄特攻作戦である『天一号作戦』について。

そもそも『大和』以下、“第二艦隊”の水上特攻出撃は、イキナリ決まった物である。

沖縄出撃の作戦は実のところ
“航空部隊だけに特攻をさせているのが忍びないから”
出されたものであって、そこに何の目的も勝算があった訳でもない。

当時、既に水上部隊が航空機の援護も受けず、敵の航空攻撃に曝されれば撃沈は必至なのは判り切っていたのである。

現に昭和19年(1944)10月には姉妹艦の『武蔵』(むさし Musashi)が米軍機の反復攻撃で午前10時半から午後3時まで死闘の末、日没後に沈没しているのだ。

にもかかわらず、4月5日に出された命令は、無謀にも敵艦船ひしめく沖縄西方海域へ突入し、46センチ主砲をもって攻撃せよという内容である。成功の可能性は全く期待できない。

ならばなぜ、かような命令が出されたのか?

前述の水上部隊の処遇といった理由もあろうが、実のところは
“もし敗戦となった時、このような大戦艦を温存したままでは顔が立たない”のが実情らしい。

時既に“一億総特攻”の掛け声で、戦争の勝ち負けよりも面子で戦争を継続させようとしていた政府である。

ましてや軍人ならば“死んで当たり前”であり、ならば“どう死なせるか”がポイントでしかなかった。
そして先のような命令が連合艦隊司令部より出されたのである。

当然命令を受けた第二艦隊は最初は反発する。
出撃するならば何らかの勝算があってこそだ、と。
短い時間の中での激しい討論の末、結局最終的には第二艦隊は司令長官以下、命に従い死地に赴くのである。

無謀な命令を
『軍人としての死に場所を与えられた』
と解釈して。

さて、欧米人はここの所が判らないという。

①“なぜ戦果の期待できない出撃命令を出したのか”
②“なぜみすみす沈められると判っている出撃を受け入れたのか”
の2点である。

軍事に詳しくない現代の人が考えても同様の感想を抱くと思う。

②については、軍人は与えられた命令に従うのみであるという思想、そして敗残兵として生き長らえるよりも、戦いの中に消えたいといった思想からか。

書籍などには一億特攻の先駆けとして散るともある。
きっとその全てであろう。

当時は今では見られないほど『国家への忠誠』が大事にされていたのである。これは今の常識論では理解できまい。

①については“海軍の栄光、名誉を後世に伝える”と言う完全な建前論である。これほど責任のない命令は過去、どこの軍隊にも見られないのではないか。

事実この沖縄突入作戦は第二艦隊の10隻中6隻が沈没したことにより挫折し、残存の駆逐艦4隻は虚しく佐世保に帰投する事になる。

しかし命令者である連合艦隊司令部の責任を問う動きは全くなく、処分は一切行われておらず、逆に生存者は離島や施設に隔離され、作戦失敗の事実隠蔽がなされている。

間違えないでいただきたいのは、命令に従い、死を決意し、艦上で勇敢に戦った者に責任はなく、むしろそれらの行為は航空特攻攻撃に散った兵士と何ら差のない、忘れべからざる偉業であると言うことだ。

『死んで来い!』と言う命令の前に自己の命を顧みず、戦いに臨んだ者を、平和な後世の誰が非難して良いものか。

戦死した彼らは今も海底に眠り、生き残った者は心に深い傷を持ちながらも、戦後を生きたのである。

第二艦隊の水上特攻を『無意味であった』と非難する向きもあるが、本当に非難されるべきは出撃した彼らではなく、無謀で可能性のない命令を出した連合艦隊司令部である。

『大和』が沈んで60年。その命令の不備を糾弾し責任を追求する動きは未だない。

yamato2
(『大和』沈没時の巨大な爆煙)

最近のトラックバック